INICIAR SESIÓN神谷レンは、いつも正しい言葉を選ぶ。
それが昔から嫌いだった。
いや、昔は嫌いではなかった。
むしろ、少し羨ましかった。俺が雑に言ってしまうことを、あいつは綺麗に言い直せた。
俺が笑いで逃がす場面で、あいつは少しだけ目を伏せて、視聴者が「レンくん優しい」と思う間を作れた。 俺が「だるい」と吐き捨てるところで、あいつは「少し休もう」と言えた。同じ内容でも、出し方が違う。
その違いが、数字になった。
好感度になった。
切り抜きになった。 支持になった。そして今、神谷レンはまた、正しい言葉を選んでいた。
【憶測を止めるためにも、関係者同士で直接話したい】
【僕は誰かを責めたいわけじゃない】
【クロユウにも、もう一度ちゃんと向き
第33話 ちゃんと説明しなさい ちゃんと説明しなさい。 その言葉は、白瀬こはるのスマホの中にあるはずだった。 母親から届いたメッセージ。 通知画面に表示された数行。 指で消せば見えなくなる文字。 それなのに、喫茶こもれびの空気は、その言葉でいっぱいになっていた。 カウンターの内側。 窓際の席。 白湯のカップの縁。 食べかけの卵焼き。 源三さんが持ってきた将棋盤の上。 どこに目をやっても、そこにある。 ちゃんと説明しなさい。 ちゃんと、とは何なのか。 全部話すことか。 すぐ話すことか。 泣かずに話すことか。 相手が納得するまで話すことか。 相手が欲しがる言葉を、相手が欲しがる順番で並べることか。 俺には、分からない。 分からないが、その言葉が人を追い詰めることだけは、嫌というほど知っている。 昼過ぎのこもれびは、営業中なのに妙に静かだった。 客はいない。 商店街そのものが、昨日から少し息を潜めている。 黒い車。 切り抜き動画。 神谷レンのコメント。 こはるの母親からの連絡。 一つ一つは別々の出来事なのに、全部が同じ手で喉を押さえてくる。 俺はカウンターで記録表を開いていた。 真柴さんに言われた通り、淡々と記録する。 投稿日時。 動画タイトル。 URL。 スクリーンショット保存済み。 神谷レンのコメント確認。 母親からの連絡。 こはる本人による返信一回。 以後、直接返信停止。事務所対応予定。 文字にすると、冷たい。 こはるが
第32話 誰かを守るため、という言葉 誰かを守るため。 神谷レンのその言葉は、朝からずっと喫茶こもれびの中に残っていた。 音ではない。 匂いでもない。 けれど、どこにいても目に入る。 カウンターの端。 白湯のカップの横。 将棋盤の歩の上。 こはるの膝に置かれたホワイトボードの余白。 芽衣が持ってきた卵焼きの黄色い断面にまで、その言葉が染みている気がした。 誰かを守るため。 綺麗な言葉だ。 綺麗すぎて、触ると手が切れる。 守るためなら、話すべきだ。 守るためなら、説明すべきだ。 守るためなら、逃げてはいけない。 守るためなら、傷ついても仕方ない。 そうやって、守る側の人間は、いつの間にか逃げ道を失う。 しかも厄介なのは、その言葉を聞いた本人まで、自分で自分の背中を押してしまうことだ。 守らなきゃ。 私が出なきゃ。 俺が話さなきゃ。 そう思ってしまう。 善意に見える言葉ほど、人を縛るのが上手い。 俺はカウンターの中で、真柴さんに言われた通り記録をつけていた。 日時。 投稿。 URL。 内容。 こちらの対応。 地味だ。 ものすごく地味だ。 怒りで手が震えている時に、投稿URLをコピーして、スクリーンショットを保存し、時刻をメモする作業ほど、気持ちと噛み合わないものはない。 だが、真柴さんは言った。『感情的な反論ではなく、事実の積み上げが必要になります』 正しい。 正しいが、腹は立つ。 人間は
第31話 逆ギレ切り抜き 切り抜かれる時、人間はだいたい一番嫌な顔をしている。 怒った顔。 焦った顔。 言葉に詰まった顔。 守ろうとして、少しだけ声が荒くなった顔。 自分では、その前後にどれだけ息を殺していたか知っている。 何を飲み込んだか。 何を言わなかったか。 どこで踏みとどまったか。 でも、画面の中には残らない。 残るのは、都合のいい数秒だけだ。 その数秒に、字幕がつく。 タイトルがつく。 意味がつく。 そして、人間はその意味ごと燃やされる。 深夜に上がった動画は、朝になる頃にはかなり広がっていた。「炎上した元実況者クロユウ、月乃こはね疑惑の商店街で逆ギレ」 タイトルだけで、胃が冷たくなる。 動画は三十秒もない。 黒い車が映っているわけではない。 カメラを持った男たちがどう来たかも映っていない。 源三さんが最初に「買う気がないなら帰れ」と言った場面もない。 芽衣が「ここは誰かを探す場所じゃありません」と言ったところもない。 八百屋の親父さんが「トマト買うか?」と訳の分からない営業をしたところもない。 映っているのは、俺が少し声を荒らげたところだけだ。『俺に聞きたいことがあるなら、俺に言ってください。ただし、ここを撮るな。彼女を撮るな。商店街を疑惑の背景にするな』 そこに、赤い字幕。【クロユウ、月乃こはね疑惑の取材に逆ギレ】 さらに、投稿者のコメント。【例の商店街で撮影中に怒鳴られました。やっぱり何か隠してる?】 隠してる。 逆ギレ。 疑惑。
第30話 黒い車と、閉じた扉 黒い車のドアが開いた。 最初に降りてきたのは、神谷レンではなかった。 そのことに、俺は一瞬だけ安心した。 だが、その安心は、すぐに別の嫌なものへ変わった。 助手席から降りてきた男は、片手に小型カメラを持っていた。 スマホではない。 ちゃんとした撮影用のカメラだった。 運転席側からは、もう一人。 こちらはマイクのようなものを持っている。 胸元には、どこかで見たことのある配信系チャンネルのロゴが小さく入っていた。 名前は知らない。 でも、空気は知っている。 人の揉め事を、画面の向こうへ運ぶ人間の空気。「ここか」 カメラを持った男が、周囲を見回して言った。 声は大きくない。 けれど、こちらに聞こえるような音量だった。「例の商店街っぽいな」 もう一人が、こもれびの入口に貼られた札を見つける。『撮らないでください。 探さないでください。 騒がないでください。 買い物と白湯は歓迎します。』 男はそれを見て、鼻で笑った。「白湯は歓迎、だって」 笑うな。 そう思った。 声には出さなかった。 源三さんが、丸めた新聞を片手に俺の横へ立つ。 新聞。 さすがにこれで戦うつもりはないだろう。 ない、と思いたい。「黒瀬」「はい」「戸の外だ」「はい」 俺は答えた。 自分の声が少し低くなっている。 こもれびの奥では、
第29話 神谷レンは会いに来る 神谷レンは、いつも正しい言葉を選ぶ。 それが昔から嫌いだった。 いや、昔は嫌いではなかった。 むしろ、少し羨ましかった。 俺が雑に言ってしまうことを、あいつは綺麗に言い直せた。 俺が笑いで逃がす場面で、あいつは少しだけ目を伏せて、視聴者が「レンくん優しい」と思う間を作れた。 俺が「だるい」と吐き捨てるところで、あいつは「少し休もう」と言えた。 同じ内容でも、出し方が違う。 その違いが、数字になった。 好感度になった。 切り抜きになった。 支持になった。 そして今、神谷レンはまた、正しい言葉を選んでいた。【憶測を止めるためにも、関係者同士で直接話したい】【僕は誰かを責めたいわけじゃない】【クロユウにも、もう一度ちゃんと向き合ってほしい】 クロユウ。 その名前を、あいつは公開の場に置いた。 丁寧に。 優しく。 まるで、道端に落ちていた傷口を拾い上げて、「これ、君のものだよね」と差し出すみたいに。 俺は喫茶こもれびのカウンターで、コーヒー豆を挽いていた。 源三さんに「コーヒーを淹れろ」と言われたからだ。 こんな時に。 そう思った。 でも、手を動かしていないと、スマホを叩きつけそうだった。 豆を挽く音が、店内に響く。 がりがり、がりがり。 荒い。 今日は、音まで荒い。「黒瀬」 源三さんが入口近くの席で言った。「力を入れすぎだ」「豆に罪はないですもんね」「あるわけ
第28話 名前ではなく、言葉を聞いてください 名前ではなく、言葉を聞いてください。 自分たちで書いたくせに、その言葉は思ったより重かった。 投稿してから一晩経っても、匿名ラジオのアカウントには通知が残り続けていた。 好意的なものもある。【名前じゃなく言葉を聞く、いいな】【匿名って本来そういうものだよね】【白湯あります、で泣いた】【探さないことが守ること、覚えておきたい】【夜の商店街、続いてほしい】【撮らない。探さない。騒がない。白湯飲む】 けれど、当然そうでないものもある。【綺麗事】【本人なら本人って言えばいいだけ】【隠してるから騒がれるんだよ】【クロユウ絡みなら信用できない】【名前じゃなく言葉って、都合悪い時だけ言うやつ】【月乃こはねのファンは不安なんだけど?】【説明責任から逃げるな】 説明責任。 その四文字を見るたびに、俺の胃は律儀に縮んだ。 誰に対する。 何の。 どこまで。 そう聞き返したくなる。 だが、ネットでは「説明責任」という言葉が出た時点で、こちらはもう少し悪い側に置かれている。 説明しないから怪しい。 怪しいから説明しろ。 説明したらしたで、そこからまた切り取られる。 便利な無限地獄だ。 朝の喫茶こもれびで、俺はカウンターに肘をついたまま、スマホを睨んでいた。 睨んでも通知は減らない。 むしろ、スマホの方が「見てるなら更新しときますね」と言わんばかりに震える。 最悪の気遣いである。「悠斗兄」 芽衣の声がした。 いつ来たのか分からない。 気づ







